フランコ君の目安箱

主に学校教育について、江戸時代の”目安箱”のように、フランコ君なりの意見や主張を投稿します。皆さんの考える際の”目安”にもなればと思っています。

大学院に入ってよかった①

どうも、フランコ君です。

前回は初投稿、”自己紹介”と”今後書いていきたいこと”についての記事でした。

続く第2回目の今回は、私が大学院に進学することを決める大きなきっかけとなった、教育実習での経験について、お話しさせてもらいます。

 

教育実習は満点(自己採点)

 

私は大学入学時から教師をめざして教職課程を履修し、4年生のときには教育実習に行かせていただきました。

実習生という立場上、限られたお仕事しか任されることはなかったですが、やはり学校現場に実際に身をおいたことは貴重な経験になりました。何より、それまでに学んできたことを、想像していた以上に色々と試し、実践にうつすことができたので、非常に満足のいく実習期間でした。

というのも、ずっと教師を志していた私は、大学の教養科目も”教育”に繋がりそうな授業を優先的に履修したり、学習指導案やレポート課題を作成する機会があれば、ネットや図書館の本を納得できるまで調べまくったりしていたことで、さまざまな知識を蓄えていました。

そしてその準備が最高に発揮されたおかげで、とにかく褒められてばかりの実習だったなと振り返ります。ダメ出しされたところといえば、「生徒たちを元気にさせるような”明るさ”や”大きな声”がもっと必要だ」といった内容くらいでした。非常に自信が深まり、教師になりたいと心から思えました。

 

A君との出会い

 

しかし、たった1つだけ、実習後の私のなかで引っかかっていたことがありました。

それは、ある男子生徒Aです。私は、社会科の授業で彼と関わりました。

A君は字を書くことをとても苦手としていました。他の生徒が1行板書をする間に、A君は1文字書くのがやっとというくらいでした。また、着席はしているものの、終始どこか落ち着かない様子。授業中に養護教諭が教室の外から覗いておられることもしばしばで、授業担当の教諭(私の指導教諭=以下、”指導教諭”)も明らかに手を焼いているように見えました。いわゆる、「気になる子」と呼ばれる生徒です。

しかし、私にとってはどうも理解しがたかったのが、A君はとても愛嬌がある可愛らしい生徒で、むしろいつも友人に囲まれてニコニコしていて、学校に適応できていない様子もなかったことです。勉強はできなくても、楽しそうに学校生活を送っているように見える。特に問題行動があるわけでもない。たとえ彼をスルーし、それなりで対応していても、大きな間違いが起こることはなさそうにも思えました。

私が観察していた限り、指導教諭が行っていた主な援助としては、「A君を常に気にかけながらも、クラス全体としての授業を着実に進める」「板書の時間は他クラスと比べてやや長めにとり、一定時間A君の横につき、少しでもノートを書けるように指導する」など。正直、指導教諭や養護教諭ですら、A君への対応に自信が持てていないように見えました。

大学で心理学を専攻し、さらに独学で学校教育に関する情報を得ているという自負もあった私は、それこそ臨床心理学や発達心理学などの持てる知識を総動員して、彼を観察しました。指導教諭の関わり方を模倣し、自分なりのアレンジを加えながら、試行錯誤しました。”学習障害(LD)か、ADHDもあるのか?”という見たてくらいはわかり、とりあえずなかなか良好に彼と関わってはいたものの、授業者としてもっとも重要な、「A君に対してどう教えるのがよいのか」という問題が、私のなかでスッキリ解決されることはありませんでした。要するに、それなりに真面目に学び、準備してきたのにも関わらず、その場にあっては何もできなかったのです。自分のセールスポイントだと思っていた心理学や学校教育の知識が、現実の前にあって無に帰してしまうような事態に直面しました。

 

このような教育実習での経験から、私が第一に感じたことは、「教師という仕事の大変さ」です。それぞれ異なる人格をもった数十人の生徒たちに対して、教師は自分なりの”解”を(時には瞬時に)導き出すことが常に求められるのです。これは非常に高度な仕事で、まさに「教育のプロ」だなと実感しました。

(次回に続く…)

 

まとめ的な話

 

今回は私の体験談の一つを書かせていただきました。

ちなみに、上記の情報については、プライバシーに配慮して一部改変をしておりますので、ご了承ください。

ともあれ、教育実習先でのA君との出会いが、私を大学院まで連れてきてくれたといっても過言ではありません。

皆さんは、指導教諭が行っておられた援助(上述)について、適切な関わり方・指導法であったと思われますか?

私の答えは「ノー」でした。しかし、適切ではないかもしれないとは悟っていたものの、何がどう「ノー」なのか、その”解”を見つけ出すことが、当時の私には皆目できなかったのです。

 

ここから先のさらに詳しいお話は、次回の投稿で書くことにします。

 

それでは。