フランコ君の目安箱

主に学校教育について、江戸時代の”目安箱”のように、フランコ君なりの意見や主張を投稿します。皆さんの考える際の”目安”にもなればと思っています。

教育者のための特集③アクティブラーニングとは(1)

どうも、フランコ君です。

ここまで『特集』として、第1回目「構成主義とは何か」、第2回目「客観主義と構成主義の2つのパラダイム」といった記事を書いてきました。

今回は『特集』の第3回目、構成主義」と「アクティブラーニング」との関連について考察していきます。”これからの学校教育のあり方”を論じるためには、この「アクティブラーニング」はとても実践的で身近なキーワードになりうると私は考えています。

これまでの『特集』の投稿を読まれていない方、忘れてしまった方はこちらから。

 

francokun.hatenablog.com

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今回ご紹介させていただく参考文献は、田中俊也先生編著の『教育の方法と技術:学びを育てる教室の心理学』という本です。学習理論や教育評価、ICT活用など、学校の授業に関係する話題が網羅的に書かれていると思います。そのなかから、「アクティブラーニング」に関する内容として今回は、森朋子先生がお書きになった「第3章:学びが育つ教授法」を参考にします。(実は、私は大学時代の教職科目でこの森先生の授業を受けたことがあり、私の教育観にかなり影響を与えた方です。)

これに加えて、(前回ご紹介した)久保田賢一先生の『構成主義パラダイムと学習環境デザイン』という本の内容とをフランコ君なりに関連づけ、肉づけするような形で、以下に論じていければと思います。私が大学、大学院と教育について学び考えてきたなかでの”アクティブラーニングとは何か”、”アクティブラーニングをどのように実践するか”、といった課題に対する一つの結論を、今回の記事を通してたっぷりと書いてみます。

 

先に結論

 

まず、今回の記事の結論部分から述べさせていただくことにします。

【アクティブラーニング=構成主義

【アクティブラーニングは、構成主義の学校教育をめざすうえでの重要な実践である】

これが私の考えであります。

 

「アクティブラーニング」と聞くと、みなさんはどのようなこと(概念、理念、活動など)をイメージされるでしょうか?

グループ学習や班学習、フィールドワーク、ICT機器を使った学び、積極的な発表活動などがアクティブラーニングとして広く行われています。アクティブラーニングは、学校に関わる人々の間では「新たな学び方」として”常識”にすらなってきていると思います。アクティブラーニングという言葉が教育界に広く流布しはじめてもう何年も経っていますので、かなり多くの人に認知されていますが、正直な感想として、それほど重要なことと意識してきた人は決して多くはないでしょう。

(あくまで私の肌感覚ではありますが)アクティブラーニングは、マンネリ化していた日々の授業に刺激を与える教授法として、教師たちはその物珍しさや目新しさに取り入れてみて(あるいは、学校全体の取り組みになっていたり、うまくいった周りの教師を真似してみたり)、そして、その想像以上の成果に驚き、チャレンジを継続している、といった理由による実践がほとんどと感じます。(もちろん、やること自体に大いに意味があるのですが。)

しかし、私にとってはこの「アクティブラーニング」という活動は、これからの「教育改革の旗頭」とまで言えるくらい、改革のめざすべき根本的な考え方が集約されている活動であると思われるのです。いまは単なる”授業のやり方の変化”くらいにしかとらえられていない、この「アクティブラーニング」というものが、先制パンチのように、これから加速する教育改革の伏線になるかもしれません。

 

アクティブラーニングとは何か

 

 そもそも「アクティブラーニング」とは、アメリカの大学教育改革のなかで生まれた用語です。教師による一方向的な講義形式をやめて、学習者自身が知識を活用しながら自らの思考を能動的に構築していく、その主体的なプロセスのことであり、そしてそれが書く・話すなどの活動を通じて外から見えることが重要になってきます。つまり、アクティブラーニングは何かひとつの枠におさまる教育方法なのではなく、生徒の思考や行動がまさに「アクティブ」になっているかどうか、という観点に立ってのあらゆる”能動的学習を指すと思います。(教育学においては古くから類似の概念がいくつもあったようですね。)これが大学にはじまり徐々に下の年代における教育に取り入れられてきたのです。

アメリカの教育学者であるBarrとTagg「教授・学習のパラダイム転換」という考え方を提唱しています。この理論は、アクティブラーニングの必要性を論じる際の非常に重要な視座です。というよりもむしろ、「教授・学習のパラダイム転換」がアクティブラーニングの目的である、と私は考えています。

授業というのは、言うまでもなく「教える(教授)」と「学ぶ(学習)」との相互作用によって成立されます。しかし、従来の学校ではついつい「教える」が中心となり、”何を教えるか”といったように教師が主役になってしまうのです。それはある種、教師が日々一生懸命に生徒のために行動していることの証左でもあるのでしょうが、そうではなく、生徒が学んでいるかどうかに目をやり、”何を学ぶか”を重視する、生徒が主役の授業であるべきだ、それが教師のミッションだ、というのが彼らの含意なのです。「一生懸命やるのは生徒だ」という具合に頭を切り替える、”転換”することからアクティブラーニングははじまるのかもしれません。

 

アクティブラーニングと構成主義

 

ここで話が終わってはいけませんね。”これを実現するにはどうするべきなのか”というアクションプランが重要です。その答えになるのが、彼らのフレーズのなかの「パラダイム転換」という部分です。【「教師が教える」から「生徒が学ぶ」に授業の方法を変えていく】ではありません。【「教師が教えるというパラダイム」を「生徒が学ぶというパラダイム」に転換】するのです。

ここにおいて、『特集』の1回目・2回目と書かせていただいた内容が深く関連してくるのです。

パラダイム”という言葉の意味は、ものの見方、”哲学”ということでした。「教師が教えるというパラダイム」のことを「客観主義」、そして「生徒が学ぶというパラダイム」のことを「構成主義と呼ぶわけです。客観主義とは、教師が知識を効率的に伝達し、それを生徒はひたすら身につけ、それができているかを教師がテストする、といった教育観でした。一方の構成主義では、知識は生徒が自らの頭のなかに主体的に構成していくものであり、教師はそれが円滑にできるように支援する、といったような教育観になります。

この「客観主義」から「構成主義」への教育理論の”転換”は、単に教育の重点が”振り子”が振れるように「教授」から「学習」に移ったというとらえ方では不十分と言えます。”転換”とは、”別のものに変える”ということを意味するのであり、すなわち、教育(ないし各人の教育観)の根底にある”哲学”をこれまでとはまったく異なる方向性に変えていく必要がある、と認識しなければならず、そう認識せずして”転換”はないでしょう。

現在、日本中の教育現場において導入されている「アクティブラーニング」というのは、”教える”ばかりではなく”学ぶ”授業にしよう、とあくまで同じ土台のうえに乗ったまま、”振り子”が一方から他方へ移っていくくらいにしか考えられていないのではないか、と思われるのです。そうではなく、「教授・学習のパラダイム転換」です。土台(パラダイム)から変えてみませんか、と。最近では、「アクティブラーニングのやり方」なるものが散見されるようになりましたが、それはアクティブラーニングの”はじめたて”に活用するにはもってこいです。しかし実際は、教育を土台から変えてしまうのが「アクティブラーニング」の意味するところなわけですから、現時点でそのやり方なんてどこを探してもありませんし、あくまで”教育技術”の範疇を出ないものでしょう(”技術”はあるに越したことはないですが)。今までの学校で軽視されてきた「生徒がアクティブ」さえできれば、主役でもなんでもない教師側のやり方はそれほど大事ではないだろう、とさえ私は思っています。そのように教師が授業に臨むことによって、アクティブラーニングのやり方は開発・創出される性質のものと言えるのではないでしょうか。

つまるところ、まずは教師がパラダイム転換、すなわち、生徒に対する見方(自らの”教育哲学”)を別のものに変えなくてはいけないのではないでしょうか。なぜなら、今この瞬間も学校は「教師が主役」だからです。教育作用や効果というものにばかり囚われるのではなく、むしろ教育にあたるときの根本的態度を変えてみること、それ自体に意義があると私は考えています。”教師の質向上”が打ち出されていたりしますが、それをめざして研修なるものをやって教師の”指導技術”を高めても、「教師が主役」の日本の教育は続くしかないはずです。

(次回に続く…)

 

まとめ的な話

 

 

最近では、「主体的、対話的で深い学び」といった表現のほうが広く唱えられるようになっているのですが、私は「アクティブラーニング」のほうが(抽象的な言葉ではあるものの、かえって)誤解を生みにくくてよいのかなと思ったりしています。(もちろん、これらは全くの同義語ではないでしょうが。)

「主体的・対話的で深い学び」という言葉を知ったときの私はそこまで何とも思わなかったのです。しかし今回の記事のように、構成主義”と”アクティブラーニング”との連関に思い至ったとき、まさに構成主義の教育理論を具体化・言語化した学びのスタイルを示しており、”結局どうしたらいいの?”と戸惑ってしまう教師たちにとって確かによいフレーズだな、と感心しました。

しかし、一方で、主体性を発揮させないといけない、授業の中で対話をさせないといけない、などと過度に意識することになれば、かえって、生徒の(表層的な)主体性の無さが気に障ったり、あるいは(単なる)グループ学習の繰り返しになったりしてしまいそうに思われるのです。それにより知らぬ間に、”客観主義”への逆戻り路線に入るかもしれません。そのため、ここはあえて抽象的に、「生徒の思考・行動がアクティブになれるように関わろう(そしたら、生徒はいずれ自ら学ぶのだから)」というくらいの理念でもって、骨の髄から教師の生徒観を一新することではないかと、強調したいのです。そうすればおのずと、何の負担もなく、アクティブラーニングの授業に変わります。

 

次回、「アクティブラーニング」についてもう少し。補足的にアクティブラーニングの必要性や課題などといったような内容を書きたいなと思います。

アクティブラーニングは私がとても重要だと感じている話題なので、やはり1回では書ききれませんでしたね。また読んでいただける方は、次回お楽しみに。

 

それでは。