フランコ君の目安箱

主に学校教育について、江戸時代の”目安箱”のように、フランコ君なりの意見や主張を投稿します。皆さんの考える際の”目安”にもなればと思っています。

「あれは漫才なのか」論争について考える

どうも、フランコ君です。

 

早いもので、私たち人類がコロナウイルスという未曾有の感染症に直面した2020年も、残すところあと数日となりした。明日の生活もままならない日々を送ってこられた方もたくさんいらっしゃることを思うと、私はつくづく恵まれているなと、今年を振り返ると感じずにはいられません。

 

それはさておき、今回は、タイトルのとおり、「M-1グランプリ」の話題とします。

何を隠そう私もお笑いファン、漫才ファン、そしてM-1ファンの1人でして、年の瀬の風物詩と言ってもよいM-1グランプリの開催を毎年心待ちにしているうちの1人です。

ちなみに、以下、お笑いコンビ、そして審査員の方々など、全て敬称略で書かせていただきますので、ご理解ください。

 

2020年12月20日M-1グランプリ2020を制したのは、ご存知のように「マヂカルラブリー」でした。本当におめでとうございました。しかし、彼らの披露した「漫才」が、SNSを中心とした一部で「漫才ではない」と評されていることの方が話題になってしまっているような気がして、M-1ファンとしては正直、悲しい気持ちが強いですね。多くの芸人たちがこの話題に反応し、持論を展開しています。

そこで今回は、この「あれは漫才なのか」論争に対して、いち漫才ファンであるフランコ君の考えを、偉そうにも書かせてもらおうと思うのです。

ちなみに、私は今年のM-1に関しては、お昼に開催しれた敗者復活戦を全組見て、採点メモもリアルタイムで付けさせてもらい、そして決勝戦も、優勝が決まる瞬間までテレビの前で見届けていました。その日に登場した全組の漫才の感想をここで書きたいくらいの心境ではありますが、それは割愛して、このテーマに絞って思いつくままに書いてみます。

 

漫才であるVS漫才ではない

 

そもそも、「あれは漫才なのか」論争の発端ないし対象となっているのは、マヂカルラブリーが優勝を決めた2本目のネタでしょう。ボケの野田が"電車の吊り革を持ちたくない"と言って、何がどうなっても吊り革に捕まろうとしない、というネタだったと思われます。肝心の野田はネタ中ほとんど"言葉"を発することなく、ただただ滑稽な"動き"を繰り返す、これで会場の爆笑をかっさらい優勝してしまったために、批判の的となってしまったのです。

過去には、サンドウィッチマン霜降り明星が大会を制した後にも、「コントじゃなくて"漫才"をやれ」と揶揄されたことがあったので、定期的にこの「漫才なのか」論争は繰り広げられるような印象であり、あまり気にすることでもないとは思いますが。

 

まずはこのテーマについて考えるうえで、私個人は"どっち派"なのかというと、もちろん「漫才である」派です。ただ、「漫才ではない」派の人たちの気持ちもわからなくもありません。なぜなら、"漫才"とは何か?が未だよくわからないからです。

この"漫才"の定義のようなものについては、おそらくプロの漫才師たちにも、あるいはM-1の立ち上げに関わった人たちなんかにとっても、あまりよくわからないものなのではないでしょうか。ワイドナショーを見ていても、審査員も務めた松本人志が「漫才の定義はない」といった趣旨の発言をしたうえで、今大会を「野球の大一番の試合で"消える魔球"を投げたようなもの」と表現していたのは、まさに言い得て妙だなと思いました。

「漫才である」派と「漫才ではない」派の言い争いにおいては、この"漫才"の定義という前提条件がそもそも異なっていることが多いように見受けられるのです。それが交わるわけもなく、結果的にお互いの"漫才観"をぶつけ合うことに終始します。

それが悪いことだとは全く思いません。そのように、ネタを見た人が、あるいはお笑いファンが、何となくでも自分のなかに漫才観を確立させ、それをもとに議論をすることができる、これこそがM-1グランプリを国民的な賞レースへと押し上げた原動力だろうと考えるからです。

したがって、"漫才"と一口に言っても、"漫才"とは何か?と考えたときの答えにあたるものは結局1つではなく、1つであるはずもなく、人それぞれの解釈に委ねられるものである、と言えるでしょう。なので、結果的にはそれぞれが自分の「好み」を主張し合っているに過ぎないもので、それを「漫才とは〜」なんて高尚な話のように仕立てているだけだろう、とすら思ってしまいますね。

ただ、その「好み」がお笑いの本質に厳然とあるとは思うので、いがみ合いではなく、平和的な会話として成立されるのであれば、それはむしろとてもよいことなのかもしれません。

 

漫才とは何か?をもう少し

 

フランコ君にも、自分なりの"漫才"の定義はありますが、漫才を見れば見るほど、それはよくわからないものに思えてきます。最近では数えきれないほどの芸人がこの世に存在して、いろいろなパターンやコンセプトの芸が披露されるので、もはやどれが"漫才"でどれが"コント"なのか、分類することも難しく、どんどんとニュートラルで抽象的な定義になってきているような気がします。ある意味で、漫才というものが発展・拡大してきているのでしょう。

だから、強いて言うならば、やはり「センターマイク1本」というのが最終的な"漫才"の定義になるのではないかと考えています。広い舞台の中央にマイクが1本だけ置かれ、あとは自由に使ってよい、これが"漫才"なのではないでしょうか。

 

優勝はマヂカルラブリー

 

上に書いたように、私は、当日の敗者復活戦に関してはリアルタイムで採点までして見ていました。その採点をした際、どうせならちゃんとやりたいと張り切って、あたかも自分が審査員となって舞台横にいるかのように、できる限り先入観を排して厳正に採点するようにしてみました。(めちゃくちゃ楽しかったです。)

そんな私なので、最終決戦の3組の漫才を見終わったときにも、もし自分が決勝戦の審査員をしていてその場にいたらどうするだろうか、と考えていました。私の心のなかでは、投票するコンビはいとも簡単に決まりました。

正直、どれだけおもしろかったか、笑ったか、という観点では、他の2組に投票したと思います。しかし、一番の"漫才"という意味において、私のなかでのチャンピオンは他でもない「マヂカルラブリーでした。(ちなみに、私の家族は皆「見取り図」でした。)

その理由は、もちろんその日の彼らの出来、会場のウケ具合を加味してのことですが、それ以上に、私にとっては(特に2本目のネタは)逆に"漫才"だからこそできる芸なのではないか、と感じられたからでした。つまり、例えば"コント"で同じことをやったとして、それが果たして日本一おもしろいと評価されるべきものになりうるのか、芸として成立するのか、と考えたとき、答えノーだと思うのです。あのネタを、"漫才"という形式でセンターマイクを無視してやってしまうからこそ野田らしさが生き、だれよりもおもしろいのではないかと。

私には、たしかに野田が乗った電車は走っているように見えたし、お金が地面にばら撒かれたように見えたし、野田の顔におしっこがかかっていたように見えました。

舞台にはセンターマイク1本しかないにもかかわらず、その情景がありありと目に浮かぶ、これこそが"設定のある漫才"においてもっとも重要で、価値あることなのではないかと私は思っています。一般的にはこれを演技力と言うのかも知れませんが、その点において、私はマヂカルラブリーに圧倒されてしまいました。

「センターマイク1本」という制約のもとであれをやるからこそ芸としておもしろいものになり、そうであるならば、だれが何と言おうと"漫才"なのだと思うわけです。あの日、ミュージカルでもない、コントでもない、"漫才"という形式をもっともプラスに昇華して笑いを取ったコンビはマヂカルラブリーだと、私は断言できますね。

 

ちなみに、この私のマヂカルラブリー評は、先ほど書いた「好み」のお話ではありません。はっきり申し上げて、彼らは私の好みとは対極にいるという印象です。一方で、見取り図の2人に関しては、まだ彼らが大阪でもあまり知られていなかったときから大好きなコンビの一つでしたが、そんな自分が審査員だったとしてもあの日はマヂカルラブリーだったかなといったお話です。

 

審査員の票を読み解く

 

それでは最後に、最終決戦の結果について少し考えてみます。松本人志が「最後まで3択だった」と述べたように、やはりだれが優勝しても全くおかしくない展開だったと感じますね。

オール巨人と塙は「見取り図」に、上沼と松本人志は「おいでやすこが」に、そして中川家礼二、富澤、立川志らくが「マヂカルラブリー」にそれぞれ投票したわけです。この結果には、不思議にも共通点があったと思っています。

見取り図に対しては、いわゆる正統派の漫才師であるお2人が票を入れました。安定感はずば抜けていて、大阪で"劇場番長"と呼ばれるだけあるなといったところですね。

おいでやすこがに対しては、それぞれ冠番組とMCをいくつも担当してこられたお2人でした。"バラエティ枠"とは言い過ぎですが、ピン芸人のユニットとしてそれぞれの個性と経験値が融合した笑いが刺さってのことだったでしょう。

そして、マヂカルラブリーは、自身もコント形式の漫才を作る礼二と富澤、そして審査員としては異質な落語家の志らくによる票を集めての優勝でした。正統派ではない、器用ではない、でもおもしろかった、こういうメッセージすら感じてしまうのは私だけですかね。

また、優勝後に礼二が「マヂカルラブリーは"漫才"をずっと続けてください」とコメントした言葉がとても印象的でした。彼らの芸が「漫才ではない」と酷評される未来を見越していたかのように、あるいは、礼二自身が君たちは"漫才"師だとお墨付きを与えたかのように思えて、勝手に感動してしまったシーンでした。

 

まとめ的な話

 

今回は、先日のM-1グランプリで物議を醸した「あれは漫才なのか」論争について、私なりの意見を書いてみました。少なくとも、私がかなりの漫才好きであることは伝わってくれたのではないかと思います。

結論としては、今年のマヂカルラブリーの優勝には異論の余地もない、という私の感想でした。

今回書いたようなことがしばらく私の頭のなかにはあったのですが、2020年のうちにこれは記事にしておきたいなと、ふと思いましたので、遅ればせながら書くことにしました。各所で取り上げられ、もう議論は尽くされたようにも思えますが、私のブログのコンセプトの一つである、自分なりに考えたことや感じたことを書く、という意味において、考えついてしまった以上は記事にしてみようということでした。

今年のうちに書いておきたいなと思う内容がもう1個だけありますので、また時間があれば続けて投稿しようと思います。ちなみに、趣味のお話です。

 

ここまで最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

それでは。