大学院に入ってよかった②
どうも、フランコ君です。
今回は、前回の記事の続きです。
もし、まだ『大学院に入ってよかった①』を読んでおられないようでしたら、必ず読んでから先に進んでいただきたいと思います。
前回の①では、私にとって印象的だった”生徒A君との出会い”をメインに書かせてもらいました。大学卒業後は教師として働くことを考えていた私が、大学院に進学するという決断をするのにもっとも寄与したのは、間違いなくA君でした。(もちろん、以前から進学への興味はあったことが前提にはありますが。)
私は経験主義者ではない
「もう教師として働けるのにもったいない」
「そういうことも経験を積めば対処できるようになるものだ」
こう思われた方もいるかもしれません。実際、何人かにはそう言われました。
ここで、私の指導教諭について書かせていただきますと、教諭は40代の”ベテランの先生”で、優しさと厳しさを兼ね備え、とりわけ教科指導においては非の打ち所がない、”授業の達人”と言ってよいと思います。とてもよい先生にお世話になることができ、感謝は尽きません。
しかし、語弊を恐れずに書かせてもらうと、その教諭の力量をもってしても、A君への対応は難しいものでした。もちろん大学生の私にはなおさらでした。早く経験を積もうが積むまいが、初めての出来事には戸惑うのだから、少しでも多く”引き出し”をもっておく方がよい、と私は感じました。
実習を振り返るたびに、”教師になるより前にもっとやるべきことがあるのではないか”、”何かもっと特別な、あるいは異質な経験を積んでおく方がよいのではないか”と考えるようになりました。そうすることによって、自分をブランディングすることにもなると思いました。
もともと私は、”体当たりで経験して成長するタイプ”ではありません。”行動する前にある程度の情報を集め、思考を整理するタイプ”です。事前に準備をすることで、その”経験”の質が上がり、より成長速度は上がると考えるからです。
そして、どんな状況にあってもできる限りフラットな視点で、自分の経験則に囚われないようにして取り組むことをいつも心がけています。
このポリシーに基づくので、大学卒業後すぐに学校の現場で働きはじめるのがセオリーだとは知りながらも、”その経験をしている途中(いわばまだ力不足の)段階にある私の指導を受けることになるのは、教え子たちに申し訳ない”という念が浮かぶのです。一言で表すならば、これからの長い教師人生、そして未来の教育への「投資」と言えるのかもしれません。
前回も書きましたように、教師は非常に高度な能力が求められる「教育のプロ」です。新任だろうが、定年間近だろうが、生徒からすると同じ「先生」「プロ」ですし、またそうあることが望ましいのではないでしょうか。換言すると、私のような若造も、学校現場にあっては「教育のプロ」としての責任や覚悟が必要であり、自信と余裕をもってベストを尽くす誇りを忘れたくなかったのです。
(次回に続く…)
まとめ的な話
私が進学を決めたときの思いを、偉そうに長々と書かせていただきました。読み返していると、自分でもかなり暑苦しいです。
要は、「未来の教え子たちに、私にできる最高の教育を提供するための準備を、新たにまた一つ気づいてしまった」、そういった感じです。
”私は経験主義者ではない”とは言ったものの、経験を積むことを否定するつもりは一切ありません。とくに教師という仕事は、”学校”という閉鎖的で特殊な空間を戦場としており、教師の世界に特有のルールや振る舞いがあるようです。もちろんそのようなことは、経験を積むことで体得するほかないと思っています。
次回の投稿は、『大学院に入ってよかった』の最終回とします。こんな私のつたない経験や感じたことを、3回にもわたって読んでもらうことになり恐縮です。(本当は2回で終わる予定でした…)
③は大学院入学後のお話、”私の教育観が変わった大学院での学び”について書いていきます。
それでは。