フランコ君の目安箱

主に学校教育について、江戸時代の”目安箱”のように、フランコ君なりの意見や主張を投稿します。皆さんの考える際の”目安”にもなればと思っています。

教育者のための特集④アクティブラーニングとは(2)

どうも、フランコ君です。

今回も「アクティブラーニング」についてのお話です。前回からの続きという位置づけになりますので、まだの方や内容を忘れてしまった方は、こちらの(1)を読んでいただきたいと思います。前回の前提知識を共有していただいているということで、先に進んでまいります。

 

francokun.hatenablog.com

 

前回のお話の最大のポイントは、BarrとTaggによる「教授・学習のパラダイム転換」という考え方でした。「教える=客観主義」から「学ぶ=構成主義」へと”パラダイム”を転換する、すなわち、教師ではなく生徒を主体とするあり方へと、”土台”あるいは”哲学”からまるごと変えていくことが求められ、それが「アクティブラーニング」の意義である、本質である、と主張しました。

ここまでは一般論的なお話として、今回、フランコ君なりの視点でさらに話を展開させ、構成主義の教育観を具現化したともいえる「アクティブラーニング」という考え方・実践に関して、その可能性や課題といったところを議論していきたいと考えます。なぜ、私がそれほどまでにアクティブラーニングを重要視し、「教育改革の旗頭」とまで考えているのか、それについての答えにもなる内容かと思っています。

 

授業中だけアクティブラーニング?

 

アクティブラーニングとは、単なる"学び方の変化"や"教授法の改善"のような次元の話ではないと私は考えています。

BarrとTaggによるこの「教授・学習のパラダイム転換」は、従来の学校という場のそもそもの目的に疑問を投げかけ、認識を新たにすることを求めた理論でもあります。

すなわち、”何を教えるか”から”何を学ぶか”へ、”客観主義”から”構成主義”へ、根本的な”哲学”を変えてしまおうという考え方は、当然ながら授業場面にとどまる話ではないのです。この「アクティブラーニング」という”哲学”が、学校教育のあらゆる場面で行われてこそはじめて意味をもつのだ、というのが彼らの高らかな宣言の真意なのではないか、と私は考えます。

 

アクティブラーニングの限界

 

しかし、そうは言っても即座に、”さあ、やろう”とはいかないのも現実です。真の「構成主義に基づく学校教育」をしようと思うと、現行の学校における構造的な問題へと帰着します。すなわち、学校そのもののしくみや存在意義から設備まで、(ここもやはり)まるごと変えてしまわないといけません。しかし、それが一筋縄でいかないのは想像に難くありません。やはり教育は「100年の計」なのだなと、ここでも感じるわけですが、とは言えそれにひるんですべてを従来どおりでやっていては、いつまでも「客観主義の学校教育」を継続していくことになります。それがもはや"時代遅れ"であることは、多くの教育関係者も同意してくださることでしょう。

学校の構造やしくみといったことは、それこそ国や自治体のレベルで解決しないといけないわけで、それを待つのも方途の一つではあるものの、教師の日々の心がけ、活動、実践、そして教育という営みにおいてより本源的な”哲学”に関しては、比較的容易に転換できるのではないか、と私は思うわけです。

図らずもこの「パラダイム転換」の時代に生まれ落ちた必然を認識し、構成主義らしく”自ら主体的に”、新たな学校教育のあり方を”構成”していく、私自身そんな教師になりたいし、それがもっとも生徒たちによい影響を与えることになるのではないかと考えています。それこそが「研究する教師」の姿なのではないでしょうか。

 

教育改革を生きる教師の使命

 

何度も言うように、これまでの学校というのは「客観主義」に基づいています。教師が教壇に立ち、生徒は全員が教師のほうに向き、教師の話を静かに聞いていることが求められます。教師によって教えられることを身につけられているか、生徒は注意深くテストあるいは監視されます。しかし、それが近年、アクティブラーニングの流れのなかで加速度的に変容しつつあるのです。「客観主義から構成主義へのパラダイム転換」という世界的な教育改革は、私たちの周りでもすでに、たしかにはじまりつつあります。アクティブラーニングという”教え方の変化”が、教育現場においてある程度受け入れられているということ自体、私にはその先にあるダイナミックな転換・改革の足音が聞こえてくるようです。

ただし、現状ではまだまだ道半ばであり、アクティブラーニングが本来意図するのは、あるいは私たちがめざすべきなのは「パラダイム転換」です。学校教育における”哲学をまるごと新たにする”という、次のステージへと移行していく教師が増えていくならば、それに伴って徐々に改革の「うねり」が生まれます。この「うねり」が水かさを増すように大きく強くなる過程が、「パラダイム転換」のためには不可欠であると私は考えています。

真の構成主義教育の実現には、上に書いたようにまだまだ時間を要するのは間違いありません。それも、ある日突然「客観主義」が「構成主義」になるなんてこともありえませんよね。「うねり」という言葉を用いたのは、パラダイム転換にも「連続性」があると思っているからです。すなわち、パラダイムが転換する過程においては、「客観主義」「構成主義的客観主義」「客観主義的構成主義」「構成主義」といったように、段階的に大衆に受け入れられていくなかでいくつかの様相があったりするはずでしょう。

この4段階は完全に私のオリジナルの発想ですが、これに当てはめるならば、現在は「構成主義的客観主義」に少しずつ近づいてきたところ、かと思います。なので、一足飛びに構成主義へと向かっていきたいところ、当分の間は、客観主義のしくみのうえにはありながらも、構成主義の教育観を意識して教育実践を行うことがもっともよいのではないかと私は考えています。

(ちなみに、このように「客観主義」から「構成主義的客観主義」にさらに移行していく近い将来にあって、第一の障壁となるのが「評価のしくみ」であると私は考えています。このような「構成主義の学校教育のあり方」についてはまた今度、1本の記事にしてフランコ君なりの展望として示していきたいと思っていたりします。)

 

まとめ的な話

 

Think globally, act locally.」という言葉があります。誰が言いはじめた言葉なのかは諸説あるようですが、1960〜70年代の市民活動ではすでに普及していた言葉だそうです。「地球規模で考え、足元から行動せよ」と訳されますが、これはまさに、この客観主義から構成主義への教育改革、パラダイム転換を成し遂げるのに、教師にとって必要な視座ではないかと思います。この世界的な、あるいは国家的な教育改革の到来をまずは感じとり、そして私たちはその時代に生きていて、わずかながらもその一翼を担っているのです。私なんかもとより力はありませんが、そんな壮大で崇高な理想をもって、しかしながらやるべきことは「生徒が中心」の視点に立脚した学校教育という、日々の草の根の実践であると思うわけです。

構成主義の学校教育を実現するためには、学校のしくみそのものにメスを入れること、そしてまずは教師がパラダイム転換する努力を惜しまないこと、と(偉そうにも)書かせていただきました。しかし、その私も含めた、ほぼすべての人が、教師が、教育関係者が、保護者が、「構成主義」による学校教育を自らは受けていません。よって、意図的・無意図的に「客観主義」の教育を行ってしまうはずです。このことが最大の課題ではないでしょうか。

私は自らの被教育体験から、あるいは大学時代から心理学や学校教育について様々学ぶなかで、教師と生徒の"主従関係"のようなものに違和感を覚えました。生徒は教師の言うことを聞かなければならず、できなければ叱られる、結局生徒は教師の顔色を伺うしかない、その発想に基づく教育が、詰まるところ体罰や鉄拳制裁として顕在化するのでしょう。しかし、大学4年生になって、教育実習生としていざ現場に入ると、私はその違和感はやはり心の奥にもちながらも、それを意図せずどこかにしまい込んでいたのです。周りの先生方の”生徒をまとめるテクニック”ばかりを注視し、さも教育において大切なことを学んだような気になっていただけだったのです。実習中の私の言動を細かく振り返ると、それが唯一にして最大の反省点ですし、大学院に進学していなければ、この反省をする機会すらなかっただろうと思います。あのまま教師になっていたら、結果的に、私が違和感をもっていたはずの、教師側の視点でもって生徒を束ねる、従来型の教師になって一生を終えていたことでしょう。このブログで書いている、構成主義の理想を抱くことができ、間違いなく私の教育観はより強固で異質なものになりました。 

 

以上、「アクティブラーニング」について、2回に及んで書かせていただきました。最後まで読んでいただき感謝いたします。なかなかうまくまとめられなかったような気もしますが、今こそ教師たちは”哲学”を思い切って新たにすることが重要だ、こういった私の考え方だけでも伝わっていると幸いです。

次回に関しては、『特集』の第5回目、現在の学校教育のあり方(近代公教育)が成立した歴史や、教育観の変化などについてざっと書いていきたいと考えております。

 

それでは。