フランコ君の目安箱

主に学校教育について、江戸時代の”目安箱”のように、フランコ君なりの意見や主張を投稿します。皆さんの考える際の”目安”にもなればと思っています。

大学院に入ってよかった③

どうも、フランコ君です。

今回が『大学院に入ってよかった』の最終回になります。

①では教育実習での経験、②では大学院への進学にあたっての思い、そして③として今回は、大学院入学後の学びについて、少しお話しできればと思います。 

francokun.hatenablog.com

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発達心理学の授業

 

大学院に入学し、特別支援教育に精通しておられる教授の授業を受講する機会がありました。その際、学習障害(LD)について初めて詳しく学びました。LDには”読み、書き、算数の1つ以上に不振があること”や、それによって”どのような困難が認められるのか”などを知りました。”LD児が書いた文字”を見たときには、私の頭にA君がノートに書いていた字がよみがえってきました。

担当してくださった教授が強調されていたのはセミオーダーメイドの教育」というものでした。やはり学校教育にあっては、標準的な教育を受ける(受けさせる)ことが大きな目標となるわけです。しかし、そこからはどうしても漏れ出てしまうような、特徴的な子も一定数いるはずで、それに対しては、ニーズに応じて個別に対応するほうが円滑に教育を進めることができるという考え方です。

何もかもを個別で対応する、すなわち”オーダーメイドの教育”を行おうとすると、教師の労力は計り知れませんし、その必要もないはずです。そうではなく、いわば、適当な「落としどころ」を探りながら進めていくことが大切なのです。(これは一般的に「合理的配慮」と呼ばれるものとほぼ同義だろうと思います。文部科学省も、合理的配慮による教育や支援のあり方として、様々言及しているところです。)

 

書く量を減らしてあげる

 

そして、私はそんな教授にA君のことを簡単にお話しし、アドバイスを求めることにしました。教授のお答えは実にシンプルでしたが、私のモヤモヤを一撃で射貫くものでした。

「書く量を減らしてあげたほうがよいかもしれませんね」

完全に一本取られました。結局はあくまで”教師”の視点から、いかにしてこちらの考える方針やスタンスのなかに”A君をついてこさせるか”ということに囚われていただけだったと反省しました。

と同時に、私は実習中のとある授業での一幕を思い出し、A君が苦手さを感じない活動を模索できたかもしれない、とも考えるようになったのです。当時の私(や教諭)が、このような視点でも観察や情報収集(アセスメント)をできていれば、対応・援助は変わっていたでしょう。”A君は書字に困難がある”ということが、意図せず”A君はノートが書けない”、そして”A君は勉強ができない”という指導観に繋がってしまっていたのだと思います。これが根本的な間違いだったのでしょう。

学校の生徒指導の文脈では、しばしば「生徒理解」の大切さが強調されます。しかし、あくまで教師都合で生徒を見ているようでは、いくら生徒を観察したり面談したりしても、根本的には進歩はないはずであります。

 

教授の主張として私がさらに感銘を受けたのは、「苦手さをもつ生徒に配慮した授業というのは、他の全ての生徒にとって取り組みやすい授業でもあるだろう」ということであります。「ユニバーサルデザインの教育」に通ずる重要な発想だと思います。

「書く量を減らす」という教授の提案の興味深いところは、”他の生徒も”書く量が減るという点です。指導教諭の関わりを見ていて私が違和感をもったのは、A君ばかり特別扱いのように指導することによって、学級全体の空気がややギクシャクしていくことでした。A君以外の生徒のなかにも書字が得意でない子も潜在的にいるかもしれないし、しかし何よりも、A君は”全く字が書けない”のではなく、”字を書くのに遅れをとる”などといった、より正確な生徒理解が必要だったのです。そうであるならば、A君にとって可能な分量の板書にしてあげる(例えば、プリントの穴埋めによる学習)、そういった教師の工夫をこめたセミオーダーメイド」の授業を作っていけたのではないかと思っています。

 

こんなことは、私がまだ教師として働いていないから言えることなのかもしれません。しかし、これが重要な視点であると私は信じていますし、それを共有したいのです。

ニーズが多様化していると言われる学校現場にあって、個々の認知的な特性にしっかりと目を向け、支援することがやはり求められます。それは”この生徒にはこんな特徴があるからこうだ”、などと言うのとは異なっており、またその判別が大切なのではありません。あるいは、アセスメントを行うことが教師の仕事なのだ、と言うつもりもありません。しかし、 ”教師”という限られた立場のなかで援助を行ううえで、生徒の実態を把握する試みは必要だろうと思うわけです。ある種、教師たちは日々意識的・無意識的にアセスメントをしているようなもので、そこに新たな視点を取得されたいと私は感じています。

 

まとめ的な話

 

今回書かせていただいた教授とのひとコマは、私の教育観に質的な転換をもたらす大きなきっかけになりました。『大学院に入ってよかった』と題して、3回にわたって投稿してきましたが、いつまでも語れてしまうなと途中で感じたので、一旦3回目で区切ることにしました。

このブログでこれから書いていくトピックのほとんどは、大学院に入ってから学んだことや、得た知識によって形成された教育観に基づくものです。そういう意味では、フランコ君の目安箱」そのものが、『大学院に入ってよかった』の連載になっていると捉えていただいても誤りではないのかもしれません。”大学院に入ってよかった”、そう心から感じているからこそ、私の考えをみなさんに共有したいと思うまでになり、このブログを開設するにいたったのです。

 

次回からは、私がブログでもっとも書きたかったことを(これまた数回にわたりそうですが)投稿していこうと考えています。これまでの「フランコ君の目安箱」を読んで、少しでも面白いなと思っていただいた方(そうでない方も)、ぜひ読んでください。かなりの情熱を込めて、これからの学校教育についてフランコ君なりに真剣に考察していきます。

 

それでは。