フランコ君の目安箱

主に学校教育について、江戸時代の”目安箱”のように、フランコ君なりの意見や主張を投稿します。皆さんの考える際の”目安”にもなればと思っています。

教育者のための特集①「構成主義」との出会い

どうも、フランコ君です。

前回まで、3回に及んで『大学院に入ってよかった』という記事を書かせてもらいました。ざっと振り返りますと、教育実習での体験を経て進学を決意し、そして大学院でのある授業をきっかけに、現在の私の教育観(学校教育観)ができあがっていった、といった内容でした。

そして今回からはいよいよ、"学校教育"に軸足をおくこのブログにおいてもっとも書きたかったテーマに入っていこうと思います。よって、このたびは『特集』とタイトルを付け、「フランコ君の目安箱」全体を通した私の投稿の中心的な論題といたします。おそらくこれから数回にわたって記事にすることになりますので、お付き合いいただきたく思っております。

『特集』としてこれからお話ししていくにあたって、とくに私が重要だ(それを中心に論じていこう)と考えている”キーワード”を、先にお示ししておこうと思います。

キーワード:「構成主義」「アクティブラーニング」「パラダイム転換」

 

構成主義との出会い

 

私は実習先でのA君との関わり、そして大学院での授業から、生徒の視点に立ったセミオーダーメイドの教育”を明確に志向するように変化していきます。

それからしばらくして、私は”めざすべき教育のあり方”、あるいは”理想とすべき教師像”を示してくれる考え方・立場とめぐり合うことになります。それが構成主義です。”セミオーダーメイドの教育”という考え方も、構成主義とは別のところですでに出会っていたのですが、平たく言えばこれも非常に”構成主義的”な発想だなと感じています。 (私のなかでは両者が強く結びつきました。)

【なぜ、構成主義が私のめざすべき教育観・教師像だと確信したのか。】

それが、私がこのブログ「フランコ君の目安箱」を通じて、もっともみなさんに投げかけたいテーマであります。つまり、

【これからの学校教育のあり方は”構成主義”である。】

これが現在の私の主張なのです。

 

構成主義」とは

 

”これからの教育は構成主義?そんなの当たり前だろう”、そう思われた方もいらっしゃるでしょう。一方で、(私の予想では)みなさんの大半が”構成主義なんか聞いたことない”、”構成主義は知っているが、学校教育とどう関係するんだ?”と感じておられると推察します。

構成主義」は言葉としてあまりよく知られていないと思いますし、正直、私も深く理解しているかと問われると、どうなのかわかりません。というのも、構成主義とは何か、それを説明することは容易ではなく、定義も様々あるからです。

構成主義とは、ある特定の理論を指すのではなく、「各人が多様な方法で知識を主体的に構築し、世界を認識している」と考えるあらゆる理論や研究がそれに該当してくるものと思います。そのため、心理学、教育、文学、数学、生物学、芸術、医学などなど、文理を問わず、あらゆる学問領域(の特定の側面)が包含される、学際的な考え方の枠組みと言えます。ちなみに、構成主義的な思想は東洋では2000年以上(仏教思想や老荘思想)、西洋では300年以上(古代ギリシアの哲学)の歴史を持つとも言われているのです。

 

教育改革の時代

 

スッキリとしない説明になってしまいましたが、構成主義というのはむしろそういうものだと私は理解しています(それにしても、これでうまく説明できているのか…)。構成主義には"自発・能動"のような考えが前提にあると思いますので、そもそも、何かに定義を与えること自体が構成主義的ではないとも言えるようで、ここはあまり立ち止まる地点ではないと個人的には判断しています。

なので、私は「学校教育」という領域にのみフォーカスし、「構成主義」と「学校教育」との関係性について考えていくことにします。つまり、

構成主義的な学校教育とは何か?

なぜ、構成主義的な学校教育が今後必要なのか?

こんなことについて、次回以降の記事で書いていきたいと考えています。

 本の学校教育は現在、明治期以来の大改革が始まろうとしている(あるいは、始められるかどうかの分岐点にいる)というのが、私の一貫したスタンスです。そう感じる理由も含めて、「構成主義」を第一のキーワードとして考察していければいいかなと思っています。

 

たとえば、今年度から”センター試験”が廃止され、それに代わる”共通テスト”が新たに実施されることはご存知かと思います。これは、単に”入試制度が変わる”ということにとどまりません。「これからの時代に必要な学力は、現行のセンター試験では測れない」という説明はしばしば耳にしますが、その程度の理由で、歴史と実績のあるセンター試験は無くなるべきだったのでしょうか。これをやめてしまうのいうのは、見切り発車にしては思い切りすぎです。

このいわゆる「大学入試改革」は、日本の教育における「歴史的な出来事」とも言えることであり、もっと深い意図があるはずです。記述問題を導入する、外部検定試験を評価に加える、現状はそんなゆるやかな変化に過ぎませんが、私にとっては「これから日本の学校教育は転換する」という、文部科学省の高らかな意思表明であると思われるのです。

これから本格的に改革していくが、まだ具体的にどうしていくかという課題は山積していて、しかしながらこのたび”改革の象徴”として、あるいは”転換の入り口”として、あの大学入試センター試験にメスを入れたはずです。そうであるならば、私はこの決断を強烈に支持します。なぜなら、入試、すなわち「評価」というプロセスそれ自体が、教育のあり方と関わっているからです。「構成主義的な学校教育とは何か」を理解すれば、これらもおのずと説明することができるものと思っています。

(次回に続く...)

 

 まとめ的な話

 

 「構成主義とは何か」、この記事を書いていて、なかなかうまく説明できないなと私自身の勉強不足を改めて感じさせられました。(もっと勉強します。)

しかし、本題は次回からだと思っています。「構成主義」はあまりに抽象的で広義にわたる考え方であるため、特定の領域の文脈に沿って理解を深めていくのがよいのかもしれません。

次回『特集②』では、「構成主義と学校教育」(仮題)という内容で、このたびの教育改革の根底にある思想・哲学に関わるようなお話を紹介できればなと考えています。

 

それでは。