フランコ君の目安箱

主に学校教育について、江戸時代の”目安箱”のように、フランコ君なりの意見や主張を投稿します。皆さんの考える際の”目安”にもなればと思っています。

教育者のための特集②客観主義と構成主義

どうも、フランコ君です。

前回からは『特集』と題して、私がブログを始めるにあたって読者のみなさんにもっとも知ってもらいたいと思っていた構成主義という考え方について、順次共有させていただくことにしています。前回はその第1回目として、「構成主義とは何か」についてまずお話しさせてもらいました。 

 

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このたびの第2回では、「構成主義」と「学校教育」の関係性について書いていきます。その際、久保田賢一先生の構成主義パラダイムと学習環境デザイン』という本が個人的には非常にわかりやすいと思っておりますので、そちらで書かれている内容を参考にさせてもらいます。(私はほんの一部しか言及しませんので、より細かい説明はこの本を参照されるとよいです。)

今回はやや小難しい話になるかもしれませんので、みなさんがこれまでに受けてこられた教育を具体的に思い出しながら読んでいただくとよいのではないでしょうか。

 

客観主義と構成主義

 

本書では構成主義」に対するものとして「客観主義」という考え方を示し、「客観主義」と「構成主義」との全く異なる2つの”パラダイム”を仮定されています。

パラダイム”という言葉は、次回以降の『特集』を読んで理解していただくうえで、ひいてはこれからの学校教育のあり方について考えるうえで、とんでもなく重要性が高いと私は思っているので、簡単に定義しておきます。

パラダイム”とは、基本前提となる考え方の枠組みを共有している理論や実践のまとまりを指しており、「基本的な”哲学”が同じである」と私としては定義したいところです。(わりと”哲学”という言葉が好きなのですが、ここでいう哲学とは”人生哲学”みたいに表現される際の”哲学”に近いと思います。)

ちなみに、久保田先生の他の論文等も読ませていただいたところ、”実証主義”という言葉で言及されることが多いように思われましたが、私は同義の”客観主義”という表現が理解しやすかったので、そう呼ぶことにいたします。

 

「客観主義」の教育とは、一言で表すならば「古典的な教育」です。そして「構成主義」の教育とは、それに代わる「新しい教育」と言えるでしょう。(”古いからダメ、新しいから素晴らしい”と価値判断をするつもりは全くありません。)

 

客観主義の教育観

 

「客観主義」による教育は、1960年代に世界を席巻した「行動主義心理学」の知見が主流となっています。その代表格はスキナーという人物です。大学の心理学の教養科目なんかでは必ず勉強する、有名な心理学者の一人ですね。”スキナーボックス”と呼ばれる箱の中で、ネズミの条件反射の実験を行ったことなどで知られています。それが教育(学校教育)の文脈でも応用されていったわけです。

客観主義に基づくと、教育においては「教授(教える)」ということが最重要視されます。”生徒は受動的で能力が劣る”、そんな生徒に対して”教師は知識を伝達し、知識量を測定する”ことが必要だからです。その教授される「知識」は客観的なものであり、教授過程も科学的な方法を用いてできる限り客観的に法則化・最適化していきます。生徒がもっとも効率的に知識を獲得することが、何より求められるのです。実際の教授場面では、スキナーにならって、つまり「刺激と反応」を組み合わせて、繰り返し学ばせていくわけです。”誰に何をどのように教えるとよいか”といったような法則があるので、必然的に教師が生徒へ教えこむという”一斉授業”の形式が最適になります。

近代以降から現在にいたる「学校」は、まさにこの客観主義のパラダイムが脈々と流れているのです。あるいはむしろ、客観主義の教育を行いやすいように「学校」のあらゆる仕組みや設備ができてあると言っても過言ではないかもしれません。

 

構成主義の教育観

 

 1980年代後半になって、マルチメディア技術や情報通信技術(ICT)が急速に発展します。コンピューターを利用すれば情報に自由にアクセスできる学習環境のなかでは、たくさんの知識をもっていることよりも、欲しい情報を必要に応じて検索できる能力のほうが、生きていくうえで重要なのではないか、ということになっていきます。

これがきっかけとなって、教育分野においてピアジェヴィゴツキー、デューイといった人物が再評価されることになり、彼らの考え方と通底する「構成主義」の教育が注目されるようになりました。

構成主義に基づく教育の前提にあるのは、”生徒は主体的で有能”な存在であるという考え方です。そうであるならば、”教師はいかにして生徒の学習を支援するか”が重要となってきます。つまり、「人は自分自身で効果的・効率的に学ぶことができる」と考えているため、そこにおける「知識」は本人の体験や文化、特性などと切り離すことはできません。教師は生徒各自の主体的な学びを促進する、いわば”ファシリテーター”のような役割を担う必要があるのかもしれません。

 

両者の異なる「知識」観

 

久保田先生が指摘されている、「構成主義」と「客観主義」という教育に関わる2つのパラダイムの決定的な違いについて書いてきましたが、これがまずもたらすのは、教育において欠かせない「知識」というものをどうとらえるかの差異ではないかと思うのです。

構成主義の教育観における「知識」のとらえ方は、あくまで一人一人が自ら(時には他者や環境と関わりながら、しかしそれも最終的には自ら)構成していくものであり、そのプロセスを「学習」と呼びます。よって、”生徒主導”の学校教育のあり方になるはずです。

一方、客観主義の教育観における「知識」は、個人とは全く離れたところに客観的に存在していて、それを教師が効率的に伝達・提供することによって、生徒の「学習」が進むということになります。よって、”教師主導”の学校教育のあり方になるはずです。

 

少し話は逸れますが、教育の文脈において「知識」を論じるとなれば、とりわけ教育関係者などは、ともすれば単なる"二元論"に落ち着いてしまうこともしばしばでしょう。すなわち、"知識は必要か、必要でないか"といったふうな論調です。先の両者の比較がめざすところは全くその範疇ではないことは、念のためここでお伝えします。

構成主義パラダイムでは、知識にそもそも客観的とかなんとかはなく、当人なりに、社会との相互作用や内省すること等を通して構成していくもの(主観的なものという意味ではありません)というような立場なのであります。言うなれば、客観主義においてはもちろん、構成主義においても、"知識は必要"という前提があるものと思ってよいかと私は考えます。

 

話を戻します。この両者の比較から、みなさんはどのように感じられたでしょうか。私たちが学校で受けてきた教育は、やはり客観主義的な、教師主導のものだったと思われませんでしょうか。これが今後、構成主義の、”生徒の学び”が中心の教育になっていかなくてはならないのだと、構成主義と出会った時、私は再認識したのです。

(次回に続く…)

 

まとめ的な話 

 

教育は国家100年の計」とはよく言われますが、これは”100年ほどかけて国レベルで教育は大きく変わっていく”という意味であります。

先に述べたように、1980年代後半以降、構成主義の教育理論が見直され、日本においては2000年前後から本格的に学校教育に反映されるに至りました。そしてこの10年、20年で、人類が未だかつて経験したことのない情報化の社会が、想像もしてこなかったペースで進行しており、教育分野にもその波が急速に押し寄せ、旧来の客観主義が疑われ、構成主義の新たな学校のあり方がより広く見出されるということにいよいよ帰結するしかない、と私は感じてなりません。

「100年の計」ですから、あと数十年がたち、私が死ぬ頃には、このことが形になっているのではないかと楽しみにしているのです。

 

次回は「アクティブラーニング」をテーマに取り上げます。

アクティブラーニングとは、”グループワークや班学習を積極的に取り入れた授業を展開すること(教授法の見直し)”なんていうことではない、はるかに重要な試みであるはずだと私は考えています。より深い次元の、教師の”哲学”にまで関わるお話をできれば。

 

それでは。

 

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参考文献:

久保田賢一(2000).構成主義パラダイムと学習環境デザイン 関西大学出版部