フランコ君の目安箱

主に学校教育について、江戸時代の”目安箱”のように、フランコ君なりの意見や主張を投稿します。皆さんの考える際の”目安”にもなればと思っています。

教育者のための特集②客観主義と構成主義

どうも、フランコ君です。

前回からは『特集』と題して、私がブログを始めるにあたって読者のみなさんにもっとも知ってもらいたいと思っていた構成主義という考え方について、順次共有させていただくことにしています。前回はその第1回目として、「構成主義とは何か」についてまずお話しさせてもらいました。 

 

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このたびの第2回では、「構成主義」と「学校教育」の関係性について書いていきます。その際、久保田賢一先生の構成主義パラダイムと学習環境デザイン』という本が個人的には非常にわかりやすいと思っておりますので、そちらで書かれている内容を参考にさせてもらいます。(私はほんの一部しか言及しませんので、より細かい説明はこの本を参照されるとよいです。)

今回はやや小難しい話になるかもしれませんので、みなさんがこれまでに受けてこられた教育を具体的に思い出しながら読んでいただくとよいのではないでしょうか。

 

客観主義と構成主義

 

本書では構成主義」に対するものとして「客観主義」という考え方を示し、「客観主義」と「構成主義」との全く異なる2つの”パラダイム”を仮定されています。

パラダイム”という言葉は、次回以降の『特集』を読んで理解していただくうえで、ひいてはこれからの学校教育のあり方について考えるうえで、とんでもなく重要性が高いと私は思っているので、簡単に定義しておきます。

パラダイム”とは、基本前提となる考え方の枠組みを共有している理論や実践のまとまりを指しており、「基本的な”哲学”が同じである」と私としては定義したいところです。(わりと”哲学”という言葉が好きなのですが、ここでいう哲学とは”人生哲学”みたいに表現される際の”哲学”に近いと思います。)

ちなみに、久保田先生の他の論文等も読ませていただいたところ、”実証主義”という言葉で言及されることが多いように思われましたが、私は同義の”客観主義”という表現が理解しやすかったので、そう呼ぶことにいたします。

 

「客観主義」の教育とは、一言で表すならば「古典的な教育」です。そして「構成主義」の教育とは、それに代わる「新しい教育」と言えるでしょう。(”古いからダメ、新しいから素晴らしい”と価値判断をするつもりは全くありません。)

 

客観主義の教育観

 

「客観主義」による教育は、1960年代に世界を席巻した「行動主義心理学」の知見が主流となっています。その代表格はスキナーという人物です。大学の心理学の教養科目なんかでは必ず勉強する、有名な心理学者の一人ですね。”スキナーボックス”と呼ばれる箱の中で、ネズミの条件反射の実験を行ったことなどで知られています。それが教育(学校教育)の文脈でも応用されていったわけです。

客観主義に基づくと、教育においては「教授(教える)」ということが最重要視されます。”生徒は受動的で能力が劣る”、そんな生徒に対して”教師は知識を伝達し、知識量を測定する”ことが必要だからです。その教授される「知識」は客観的なものであり、教授過程も科学的な方法を用いてできる限り客観的に法則化・最適化していきます。生徒がもっとも効率的に知識を獲得することが、何より求められるのです。実際の教授場面では、スキナーにならって、つまり「刺激と反応」を組み合わせて、繰り返し学ばせていくわけです。”誰に何をどのように教えるとよいか”といったような法則があるので、必然的に教師が生徒へ教えこむという”一斉授業”の形式が最適になります。

近代以降から現在にいたる「学校」は、まさにこの客観主義のパラダイムが脈々と流れているのです。あるいはむしろ、客観主義の教育を行いやすいように「学校」のあらゆる仕組みや設備ができてあると言っても過言ではないかもしれません。

 

構成主義の教育観

 

 1980年代後半になって、マルチメディア技術や情報通信技術(ICT)が急速に発展します。コンピューターを利用すれば情報に自由にアクセスできる学習環境のなかでは、たくさんの知識をもっていることよりも、欲しい情報を必要に応じて検索できる能力のほうが、生きていくうえで重要なのではないか、ということになっていきます。

これがきっかけとなって、教育分野においてピアジェヴィゴツキー、デューイといった人物が再評価されることになり、彼らの考え方と通底する「構成主義」の教育が注目されるようになりました。

構成主義に基づく教育の前提にあるのは、”生徒は主体的で有能”な存在であるという考え方です。そうであるならば、”教師はいかにして生徒の学習を支援するか”が重要となってきます。つまり、「人は自分自身で効果的・効率的に学ぶことができる」と考えているため、そこにおける「知識」は本人の体験や文化、特性などと切り離すことはできません。教師は生徒各自の主体的な学びを促進する、いわば”ファシリテーター”のような役割を担う必要があるのかもしれません。

 

両者の異なる「知識」観

 

久保田先生が指摘されている、「構成主義」と「客観主義」という教育に関わる2つのパラダイムの決定的な違いについて書いてきましたが、これがまずもたらすのは、教育において欠かせない「知識」というものをどうとらえるかの差異ではないかと思うのです。

構成主義の教育観における「知識」のとらえ方は、あくまで一人一人が自ら(時には他者や環境と関わりながら、しかしそれも最終的には自ら)構成していくものであり、そのプロセスを「学習」と呼びます。よって、”生徒主導”の学校教育のあり方になるはずです。

一方、客観主義の教育観における「知識」は、個人とは全く離れたところに客観的に存在していて、それを教師が効率的に伝達・提供することによって、生徒の「学習」が進むということになります。よって、”教師主導”の学校教育のあり方になるはずです。

 

少し話は逸れますが、教育の文脈において「知識」を論じるとなれば、とりわけ教育関係者などは、ともすれば単なる"二元論"に落ち着いてしまうこともしばしばでしょう。すなわち、"知識は必要か、必要でないか"といったふうな論調です。先の両者の比較がめざすところは全くその範疇ではないことは、念のためここでお伝えします。

構成主義パラダイムでは、知識にそもそも客観的とかなんとかはなく、当人なりに、社会との相互作用や内省すること等を通して構成していくもの(主観的なものという意味ではありません)というような立場なのであります。言うなれば、客観主義においてはもちろん、構成主義においても、"知識は必要"という前提があるものと思ってよいかと私は考えます。

 

話を戻します。この両者の比較から、みなさんはどのように感じられたでしょうか。私たちが学校で受けてきた教育は、やはり客観主義的な、教師主導のものだったと思われませんでしょうか。これが今後、構成主義の、”生徒の学び”が中心の教育になっていかなくてはならないのだと、構成主義と出会った時、私は再認識したのです。

(次回に続く…)

 

まとめ的な話 

 

教育は国家100年の計」とはよく言われますが、これは”100年ほどかけて国レベルで教育は大きく変わっていく”という意味であります。

先に述べたように、1980年代後半以降、構成主義の教育理論が見直され、日本においては2000年前後から本格的に学校教育に反映されるに至りました。そしてこの10年、20年で、人類が未だかつて経験したことのない情報化の社会が、想像もしてこなかったペースで進行しており、教育分野にもその波が急速に押し寄せ、旧来の客観主義が疑われ、構成主義の新たな学校のあり方がより広く見出されるということにいよいよ帰結するしかない、と私は感じてなりません。

「100年の計」ですから、あと数十年がたち、私が死ぬ頃には、このことが形になっているのではないかと楽しみにしているのです。

 

次回は「アクティブラーニング」をテーマに取り上げます。

アクティブラーニングとは、”グループワークや班学習を積極的に取り入れた授業を展開すること(教授法の見直し)”なんていうことではない、はるかに重要な試みであるはずだと私は考えています。より深い次元の、教師の”哲学”にまで関わるお話をできれば。

 

それでは。

 

―――――――――

参考文献:

久保田賢一(2000).構成主義パラダイムと学習環境デザイン 関西大学出版部

教育者のための特集①「構成主義」との出会い

どうも、フランコ君です。

前回まで、3回に及んで『大学院に入ってよかった』という記事を書かせてもらいました。ざっと振り返りますと、教育実習での体験を経て進学を決意し、そして大学院でのある授業をきっかけに、現在の私の教育観(学校教育観)ができあがっていった、といった内容でした。

そして今回からはいよいよ、"学校教育"に軸足をおくこのブログにおいてもっとも書きたかったテーマに入っていこうと思います。よって、このたびは『特集』とタイトルを付け、「フランコ君の目安箱」全体を通した私の投稿の中心的な論題といたします。おそらくこれから数回にわたって記事にすることになりますので、お付き合いいただきたく思っております。

『特集』としてこれからお話ししていくにあたって、とくに私が重要だ(それを中心に論じていこう)と考えている”キーワード”を、先にお示ししておこうと思います。

キーワード:「構成主義」「アクティブラーニング」「パラダイム転換」

 

構成主義との出会い

 

私は実習先でのA君との関わり、そして大学院での授業から、生徒の視点に立ったセミオーダーメイドの教育”を明確に志向するように変化していきます。

それからしばらくして、私は”めざすべき教育のあり方”、あるいは”理想とすべき教師像”を示してくれる考え方・立場とめぐり合うことになります。それが構成主義です。”セミオーダーメイドの教育”という考え方も、構成主義とは別のところですでに出会っていたのですが、平たく言えばこれも非常に”構成主義的”な発想だなと感じています。 (私のなかでは両者が強く結びつきました。)

【なぜ、構成主義が私のめざすべき教育観・教師像だと確信したのか。】

それが、私がこのブログ「フランコ君の目安箱」を通じて、もっともみなさんに投げかけたいテーマであります。つまり、

【これからの学校教育のあり方は”構成主義”である。】

これが現在の私の主張なのです。

 

構成主義」とは

 

”これからの教育は構成主義?そんなの当たり前だろう”、そう思われた方もいらっしゃるでしょう。一方で、(私の予想では)みなさんの大半が”構成主義なんか聞いたことない”、”構成主義は知っているが、学校教育とどう関係するんだ?”と感じておられると推察します。

構成主義」は言葉としてあまりよく知られていないと思いますし、正直、私も深く理解しているかと問われると、どうなのかわかりません。というのも、構成主義とは何か、それを説明することは容易ではなく、定義も様々あるからです。

構成主義とは、ある特定の理論を指すのではなく、「各人が多様な方法で知識を主体的に構築し、世界を認識している」と考えるあらゆる理論や研究がそれに該当してくるものと思います。そのため、心理学、教育、文学、数学、生物学、芸術、医学などなど、文理を問わず、あらゆる学問領域(の特定の側面)が包含される、学際的な考え方の枠組みと言えます。ちなみに、構成主義的な思想は東洋では2000年以上(仏教思想や老荘思想)、西洋では300年以上(古代ギリシアの哲学)の歴史を持つとも言われているのです。

 

教育改革の時代

 

スッキリとしない説明になってしまいましたが、構成主義というのはむしろそういうものだと私は理解しています(それにしても、これでうまく説明できているのか…)。構成主義には"自発・能動"のような考えが前提にあると思いますので、そもそも、何かに定義を与えること自体が構成主義的ではないとも言えるようで、ここはあまり立ち止まる地点ではないと個人的には判断しています。

なので、私は「学校教育」という領域にのみフォーカスし、「構成主義」と「学校教育」との関係性について考えていくことにします。つまり、

構成主義的な学校教育とは何か?

なぜ、構成主義的な学校教育が今後必要なのか?

こんなことについて、次回以降の記事で書いていきたいと考えています。

 本の学校教育は現在、明治期以来の大改革が始まろうとしている(あるいは、始められるかどうかの分岐点にいる)というのが、私の一貫したスタンスです。そう感じる理由も含めて、「構成主義」を第一のキーワードとして考察していければいいかなと思っています。

 

たとえば、今年度から”センター試験”が廃止され、それに代わる”共通テスト”が新たに実施されることはご存知かと思います。これは、単に”入試制度が変わる”ということにとどまりません。「これからの時代に必要な学力は、現行のセンター試験では測れない」という説明はしばしば耳にしますが、その程度の理由で、歴史と実績のあるセンター試験は無くなるべきだったのでしょうか。これをやめてしまうのいうのは、見切り発車にしては思い切りすぎです。

このいわゆる「大学入試改革」は、日本の教育における「歴史的な出来事」とも言えることであり、もっと深い意図があるはずです。記述問題を導入する、外部検定試験を評価に加える、現状はそんなゆるやかな変化に過ぎませんが、私にとっては「これから日本の学校教育は転換する」という、文部科学省の高らかな意思表明であると思われるのです。

これから本格的に改革していくが、まだ具体的にどうしていくかという課題は山積していて、しかしながらこのたび”改革の象徴”として、あるいは”転換の入り口”として、あの大学入試センター試験にメスを入れたはずです。そうであるならば、私はこの決断を強烈に支持します。なぜなら、入試、すなわち「評価」というプロセスそれ自体が、教育のあり方と関わっているからです。「構成主義的な学校教育とは何か」を理解すれば、これらもおのずと説明することができるものと思っています。

(次回に続く...)

 

 まとめ的な話

 

 「構成主義とは何か」、この記事を書いていて、なかなかうまく説明できないなと私自身の勉強不足を改めて感じさせられました。(もっと勉強します。)

しかし、本題は次回からだと思っています。「構成主義」はあまりに抽象的で広義にわたる考え方であるため、特定の領域の文脈に沿って理解を深めていくのがよいのかもしれません。

次回『特集②』では、「構成主義と学校教育」(仮題)という内容で、このたびの教育改革の根底にある思想・哲学に関わるようなお話を紹介できればなと考えています。

 

それでは。

大学院に入ってよかった③

どうも、フランコ君です。

今回が『大学院に入ってよかった』の最終回になります。

①では教育実習での経験、②では大学院への進学にあたっての思い、そして③として今回は、大学院入学後の学びについて、少しお話しできればと思います。 

francokun.hatenablog.com

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発達心理学の授業

 

大学院に入学し、特別支援教育に精通しておられる教授の授業を受講する機会がありました。その際、学習障害(LD)について初めて詳しく学びました。LDには”読み、書き、算数の1つ以上に不振があること”や、それによって”どのような困難が認められるのか”などを知りました。”LD児が書いた文字”を見たときには、私の頭にA君がノートに書いていた字がよみがえってきました。

担当してくださった教授が強調されていたのはセミオーダーメイドの教育」というものでした。やはり学校教育にあっては、標準的な教育を受ける(受けさせる)ことが大きな目標となるわけです。しかし、そこからはどうしても漏れ出てしまうような、特徴的な子も一定数いるはずで、それに対しては、ニーズに応じて個別に対応するほうが円滑に教育を進めることができるという考え方です。

何もかもを個別で対応する、すなわち”オーダーメイドの教育”を行おうとすると、教師の労力は計り知れませんし、その必要もないはずです。そうではなく、いわば、適当な「落としどころ」を探りながら進めていくことが大切なのです。(これは一般的に「合理的配慮」と呼ばれるものとほぼ同義だろうと思います。文部科学省も、合理的配慮による教育や支援のあり方として、様々言及しているところです。)

 

書く量を減らしてあげる

 

そして、私はそんな教授にA君のことを簡単にお話しし、アドバイスを求めることにしました。教授のお答えは実にシンプルでしたが、私のモヤモヤを一撃で射貫くものでした。

「書く量を減らしてあげたほうがよいかもしれませんね」

完全に一本取られました。結局はあくまで”教師”の視点から、いかにしてこちらの考える方針やスタンスのなかに”A君をついてこさせるか”ということに囚われていただけだったと反省しました。

と同時に、私は実習中のとある授業での一幕を思い出し、A君が苦手さを感じない活動を模索できたかもしれない、とも考えるようになったのです。当時の私(や教諭)が、このような視点でも観察や情報収集(アセスメント)をできていれば、対応・援助は変わっていたでしょう。”A君は書字に困難がある”ということが、意図せず”A君はノートが書けない”、そして”A君は勉強ができない”という指導観に繋がってしまっていたのだと思います。これが根本的な間違いだったのでしょう。

学校の生徒指導の文脈では、しばしば「生徒理解」の大切さが強調されます。しかし、あくまで教師都合で生徒を見ているようでは、いくら生徒を観察したり面談したりしても、根本的には進歩はないはずであります。

 

教授の主張として私がさらに感銘を受けたのは、「苦手さをもつ生徒に配慮した授業というのは、他の全ての生徒にとって取り組みやすい授業でもあるだろう」ということであります。「ユニバーサルデザインの教育」に通ずる重要な発想だと思います。

「書く量を減らす」という教授の提案の興味深いところは、”他の生徒も”書く量が減るという点です。指導教諭の関わりを見ていて私が違和感をもったのは、A君ばかり特別扱いのように指導することによって、学級全体の空気がややギクシャクしていくことでした。A君以外の生徒のなかにも書字が得意でない子も潜在的にいるかもしれないし、しかし何よりも、A君は”全く字が書けない”のではなく、”字を書くのに遅れをとる”などといった、より正確な生徒理解が必要だったのです。そうであるならば、A君にとって可能な分量の板書にしてあげる(例えば、プリントの穴埋めによる学習)、そういった教師の工夫をこめたセミオーダーメイド」の授業を作っていけたのではないかと思っています。

 

こんなことは、私がまだ教師として働いていないから言えることなのかもしれません。しかし、これが重要な視点であると私は信じていますし、それを共有したいのです。

ニーズが多様化していると言われる学校現場にあって、個々の認知的な特性にしっかりと目を向け、支援することがやはり求められます。それは”この生徒にはこんな特徴があるからこうだ”、などと言うのとは異なっており、またその判別が大切なのではありません。あるいは、アセスメントを行うことが教師の仕事なのだ、と言うつもりもありません。しかし、 ”教師”という限られた立場のなかで援助を行ううえで、生徒の実態を把握する試みは必要だろうと思うわけです。ある種、教師たちは日々意識的・無意識的にアセスメントをしているようなもので、そこに新たな視点を取得されたいと私は感じています。

 

まとめ的な話

 

今回書かせていただいた教授とのひとコマは、私の教育観に質的な転換をもたらす大きなきっかけになりました。『大学院に入ってよかった』と題して、3回にわたって投稿してきましたが、いつまでも語れてしまうなと途中で感じたので、一旦3回目で区切ることにしました。

このブログでこれから書いていくトピックのほとんどは、大学院に入ってから学んだことや、得た知識によって形成された教育観に基づくものです。そういう意味では、フランコ君の目安箱」そのものが、『大学院に入ってよかった』の連載になっていると捉えていただいても誤りではないのかもしれません。”大学院に入ってよかった”、そう心から感じているからこそ、私の考えをみなさんに共有したいと思うまでになり、このブログを開設するにいたったのです。

 

次回からは、私がブログでもっとも書きたかったことを(これまた数回にわたりそうですが)投稿していこうと考えています。これまでの「フランコ君の目安箱」を読んで、少しでも面白いなと思っていただいた方(そうでない方も)、ぜひ読んでください。かなりの情熱を込めて、これからの学校教育についてフランコ君なりに真剣に考察していきます。

 

それでは。

大学院に入ってよかった②

どうも、フランコ君です。

今回は、前回の記事の続きです。

もし、まだ『大学院に入ってよかった①』を読んでおられないようでしたら、必ず読んでから先に進んでいただきたいと思います。 

 

francokun.hatenablog.com

 

前回の①では、私にとって印象的だった”生徒A君との出会い”をメインに書かせてもらいました。大学卒業後は教師として働くことを考えていた私が、大学院に進学するという決断をするのにもっとも寄与したのは、間違いなくA君でした。(もちろん、以前から進学への興味はあったことが前提にはありますが。)

 

私は経験主義者ではない

 

「もう教師として働けるのにもったいない」

「そういうことも経験を積めば対処できるようになるものだ」

こう思われた方もいるかもしれません。実際、何人かにはそう言われました。

ここで、私の指導教諭について書かせていただきますと、教諭は40代の”ベテランの先生”で、優しさと厳しさを兼ね備え、とりわけ教科指導においては非の打ち所がない、”授業の達人”と言ってよいと思います。とてもよい先生にお世話になることができ、感謝は尽きません。

しかし、語弊を恐れずに書かせてもらうと、その教諭の力量をもってしても、A君への対応は難しいものでした。もちろん大学生の私にはなおさらでした。早く経験を積もうが積むまいが、初めての出来事には戸惑うのだから、少しでも多く”引き出し”をもっておく方がよい、と私は感じました。

実習を振り返るたびに、”教師になるより前にもっとやるべきことがあるのではないか””何かもっと特別な、あるいは異質な経験を積んでおく方がよいのではないか”と考えるようになりました。そうすることによって、自分をブランディングすることにもなると思いました。

もともと私は、”体当たりで経験して成長するタイプ”ではありません。”行動する前にある程度の情報を集め、思考を整理するタイプ”です。事前に準備をすることで、その”経験”の質が上がり、より成長速度は上がると考えるからです。

そして、どんな状況にあってもできる限りフラットな視点で、自分の経験則に囚われないようにして取り組むことをいつも心がけています。

このポリシーに基づくので、大学卒業後すぐに学校の現場で働きはじめるのがセオリーだとは知りながらも、”その経験をしている途中(いわばまだ力不足の)段階にある私の指導を受けることになるのは、教え子たちに申し訳ない”という念が浮かぶのです。一言で表すならば、これからの長い教師人生、そして未来の教育への「投資」と言えるのかもしれません。

 

前回も書きましたように、教師は非常に高度な能力が求められる「教育のプロ」です。新任だろうが、定年間近だろうが、生徒からすると同じ「先生」「プロ」ですし、またそうあることが望ましいのではないでしょうか。換言すると、私のような若造も、学校現場にあっては「教育のプロ」としての責任や覚悟が必要であり、自信と余裕をもってベストを尽くす誇りを忘れたくなかったのです。

(次回に続く…)

 

まとめ的な話

 

私が進学を決めたときの思いを、偉そうに長々と書かせていただきました。読み返していると、自分でもかなり暑苦しいです。

要は、「未来の教え子たちに、私にできる最高の教育を提供するための準備を、新たにまた一つ気づいてしまった」、そういった感じです。

”私は経験主義者ではない”とは言ったものの、経験を積むことを否定するつもりは一切ありません。とくに教師という仕事は、”学校”という閉鎖的で特殊な空間を戦場としており、教師の世界に特有のルールや振る舞いがあるようです。もちろんそのようなことは、経験を積むことで体得するほかないと思っています。

 

 次回の投稿は、『大学院に入ってよかった』の最終回とします。こんな私のつたない経験や感じたことを、3回にもわたって読んでもらうことになり恐縮です。(本当は2回で終わる予定でした…)

③は大学院入学後のお話、”私の教育観が変わった大学院での学び”について書いていきます。

 

それでは。

大学院に入ってよかった①

どうも、フランコ君です。

前回は初投稿、”自己紹介”と”今後書いていきたいこと”についての記事でした。

続く第2回目の今回は、私が大学院に進学することを決める大きなきっかけとなった、教育実習での経験について、お話しさせてもらいます。

 

教育実習は満点(自己採点)

 

私は大学入学時から教師をめざして教職課程を履修し、4年生のときには教育実習に行かせていただきました。

実習生という立場上、限られたお仕事しか任されることはなかったですが、やはり学校現場に実際に身をおいたことは貴重な経験になりました。何より、それまでに学んできたことを、想像していた以上に色々と試し、実践にうつすことができたので、非常に満足のいく実習期間でした。

というのも、ずっと教師を志していた私は、大学の教養科目も”教育”に繋がりそうな授業を優先的に履修したり、学習指導案やレポート課題を作成する機会があれば、ネットや図書館の本を納得できるまで調べまくったりしていたことで、さまざまな知識を蓄えていました。

そしてその準備が最高に発揮されたおかげで、とにかく褒められてばかりの実習だったなと振り返ります。ダメ出しされたところといえば、「生徒たちを元気にさせるような”明るさ”や”大きな声”がもっと必要だ」といった内容くらいでした。非常に自信が深まり、教師になりたいと心から思えました。

 

A君との出会い

 

しかし、たった1つだけ、実習後の私のなかで引っかかっていたことがありました。

それは、ある男子生徒Aです。私は、社会科の授業で彼と関わりました。

A君は字を書くことをとても苦手としていました。他の生徒が1行板書をする間に、A君は1文字書くのがやっとというくらいでした。また、着席はしているものの、終始どこか落ち着かない様子。授業中に養護教諭が教室の外から覗いておられることもしばしばで、授業担当の教諭(私の指導教諭=以下、”指導教諭”)も明らかに手を焼いているように見えました。いわゆる、「気になる子」と呼ばれる生徒です。

しかし、私にとってはどうも理解しがたかったのが、A君はとても愛嬌がある可愛らしい生徒で、むしろいつも友人に囲まれてニコニコしていて、学校に適応できていない様子もなかったことです。勉強はできなくても、楽しそうに学校生活を送っているように見える。特に問題行動があるわけでもない。たとえ彼をスルーし、それなりで対応していても、大きな間違いが起こることはなさそうにも思えました。

私が観察していた限り、指導教諭が行っていた主な援助としては、「A君を常に気にかけながらも、クラス全体としての授業を着実に進める」「板書の時間は他クラスと比べてやや長めにとり、一定時間A君の横につき、少しでもノートを書けるように指導する」など。正直、指導教諭や養護教諭ですら、A君への対応に自信が持てていないように見えました。

大学で心理学を専攻し、さらに独学で学校教育に関する情報を得ているという自負もあった私は、それこそ臨床心理学や発達心理学などの持てる知識を総動員して、彼を観察しました。指導教諭の関わり方を模倣し、自分なりのアレンジを加えながら、試行錯誤しました。”学習障害(LD)か、ADHDもあるのか?”という見たてくらいはわかり、とりあえずなかなか良好に彼と関わってはいたものの、授業者としてもっとも重要な、「A君に対してどう教えるのがよいのか」という問題が、私のなかでスッキリ解決されることはありませんでした。要するに、それなりに真面目に学び、準備してきたのにも関わらず、その場にあっては何もできなかったのです。自分のセールスポイントだと思っていた心理学や学校教育の知識が、現実の前にあって無に帰してしまうような事態に直面しました。

 

このような教育実習での経験から、私が第一に感じたことは、「教師という仕事の大変さ」です。それぞれ異なる人格をもった数十人の生徒たちに対して、教師は自分なりの”解”を(時には瞬時に)導き出すことが常に求められるのです。これは非常に高度な仕事で、まさに「教育のプロ」だなと実感しました。

(次回に続く…)

 

まとめ的な話

 

今回は私の体験談の一つを書かせていただきました。

ちなみに、上記の情報については、プライバシーに配慮して一部改変をしておりますので、ご了承ください。

ともあれ、教育実習先でのA君との出会いが、私を大学院まで連れてきてくれたといっても過言ではありません。

皆さんは、指導教諭が行っておられた援助(上述)について、適切な関わり方・指導法であったと思われますか?

私の答えは「ノー」でした。しかし、適切ではないかもしれないとは悟っていたものの、何がどう「ノー」なのか、その”解”を見つけ出すことが、当時の私には皆目できなかったのです。

 

ここから先のさらに詳しいお話は、次回の投稿で書くことにします。

 

それでは。

どうも、フランコ君です。人生初のブログ開設。

どうも、はじめまして。フランコ君と申します。

これが記念すべき第1回目、人生初のブログ投稿になります。

ブログ名はフランコ君の目安箱」としました。江戸時代の”目安箱”のように、フランコ君なりの意見や主張を投稿します。そしてそれが、皆さんの考える際の”目安”にもなればな、そんな思いを抱いています。

あまり考えすぎると何も書けないので、まずは自己紹介から。思いつくままに書いていきます。

 

とりあえず自己紹介

 

名前は「フランコ君」。現在、大学院の修士課程に通う学生で、専攻は心理学です。

もっとも関心のあるテーマは「教育」です。正確には「学校教育」と言うべきでしょうか。

なぜなら、卒業後は教員として、学校の教壇に立ちたいと考えているからです。

希望する校種は中学校、教科は社会科です。大学時代にすでに教職課程は修了していて、中学校社会科に加えて、高校地歴科と高校公民科の免許状をもっています。

 

ふだん自分のことを話す機会はほとんどないので、これを書いただけでどこかフワフワしますね。

 

自己紹介とは言ったものの、どこまで書けばよいかもよくわからないので、とりあえずこのあたりにしておきます。私のブログに関わりそうな項目もこの程度だと思うので。

これから投稿を重ねていくなかで、必要に応じて開示していきます。

 

 「フランコ君の目安箱」ー投稿の方針

 

次に、これからどんな記事を書いてみたいか、についてです。

まず、このブログの大きなテーマ、軸としていきたい内容はやはり「学校教育」です。

その理由は、私が教員を志しているからだけではありません。現在、世界的に教育のあり方が見直されている時代であるからです。これからは、いわゆる「教育改革」の時代です。日本においても、明治期以来の変革の波がきていると私は考えています。

この話は長くなるので、今後の記事のなかで少しずつ書いていきます。

若輩者で、まだ現場での経験もないような一学生です。間違っていることもきっとありますが、学校教育に関わる理論や書籍の内容、出来事などを、日々私なりに学び、考え、その成果としてこの場を借りて共有、アウトプットさせてもらえたらいいなと思っています。

 

ただ、これだけでブログをやっていくほどの者でもありません。自分の好きなことや日常の体験など、他にもさまざま書いてみたいことがあります。

そういえばここから先は私の趣味も関わってきますので、早速自己紹介を追記。

趣味は料理、スポーツ観戦、ファッション、漫才をみること、読書、YouTubeをみること、などなど。

とくに最近の自粛期間は、YouTubeばかり開いてしまいます。どのくらい開いているかといいますと、皆さんが想像する、ちょうどその倍くらいだと思っていただいてよいです。興味深い動画があれば、また共有させてください。

料理は、趣味というより日常です。プロ級の腕前、といったことではないので、料理をテーマに記事を書くことはないと思われます。ただ、それ以外のテーマについては、すでにいくつか書きたいことが浮かんでいるので、また投稿していきます。

 

まとめ的な話

 

初投稿からいろいろと書きすぎました。

要は、基本的には「学校教育」をテーマとしますが、あらゆる私の興味の領域が記事のテーマになることでしょう、と。

 ”目安箱”なんて言っていますが、日々学んだことや感じたこと、体験談などを書き残しておく、私の備忘録のようなブログです。

少なくとも書きたいことが無くなるくらいの頃まで、楽しく長く投稿を続けていきたいと思っています。

こんなフランコ君があなたの関心に引っかかるようでしたら、たまに覗いてください。

 

それでは。